誰かの人生を左右する役など、できればやりたくはないもの。
相手を輝かせることが仕事ならいいのですが、不幸の底に突き落とすなどという
悪役は…。それでも、上役とはそういうものなのかもしれません。
あの事件と同じことがおきませんように…☆
第104話どこかで見た顔。
聞いた音楽。
感じた気持ち。
曖昧な記憶は、年を重ねるごとに増えていく。
思い出そうとしても、思い出すまでに疲れ果てる。
やがては、その記憶がなかったものだろうというところまで追いやってしまうことさえある。
そんな中、桃子は思い出していた。
あの、ぼんやりとしている目。疲れ果て、自分を見失い、未来を失った目。
それは、桃子が白旗の秘書として抜擢されることになった事件を起こした男の目と同じだと気
付いたのだ。
自分をクビにした会社を憎み、社長に再雇用を求めに来た男。もう自分の思い通りに事は運
ばないと分かっていても、すがるような思いで会社へ来たのだろう。報われない思いを吐き出
すために、包丁を忍ばせて。
本気で刺すつもりだったかどうかは、いまとなってはもう分からない。
ただ、あの希望を失った目を、桃子は確かに見ていた。
目の前にいた男から、同じ匂いを感じた桃子は、男を突き飛ばした。
男は、動じなかった。
ガタイがいいからだったのか、それともここ最近痩せてきた桃子に、力がなくなったのか。
男は、その場に立ち尽くしていた。
桃子が押した胸の辺りを、片手で払う。それは、何か汚いものでもついたかのようでもあり、
皺が寄ったのを直したようにも見えた。
「社長」
男は、桃子になど目もくれず、社長を見下ろしている。
その姿勢は、ものすごく態度を大きく見せた。
社長がすぐにでも怒り出すのではないかと、桃子は不安になった。この男、手強い。もし社長
に手出しされても、以前の包丁男のように取り押さえることができないかもしれない。
そうしたら、クビか?社長を守れなかった罰として。
それなら、そうでいい。
人の人生を狂わせても、なんとも思わない男など、あたしには合わない。
いつか辞めることになるのなら、深く関わらないうちにさっさとお別れだ。
そう思っても、任務を遂行しようと構える自分が、やけにむなしい。
横から男の急所を狙うべく、膝を軽く曲げて準備をしていたときだった。
男は、その大きな体を前に倒した。
「社長」
喉の奥から、ようやく出したかのような搾り出した声。
「わたしは長い間、営業部で真面目に勤務してきたつもりです。ですが、秘書室から新しく有
能な方が入るとかで、わたしは閑職に追いやられました。どうしてですか。わたしは、一生懸
命やってきたのに」
男の声は、「社長」と呼びかけたときとは打って変わって大声となり、桃子を驚かせた。
桃子ばかりではない。カフェのスタッフや、道行く人まで、何事かと立ち止まる。
それでも、一番奥の目立たない席だ。覗き込んでまで、様子を伺おうとはしていなかった。
樹里が営業部に移ったことで、この人は違う部署へ追いやられた。
でも、確か、営業部はいつでも人手不足だというような話を聞いた。それなのに、樹里一人入
るくらいで、なぜ一人追いやられなければならないのか。疑問だった。それに、営業部にとど
まりたいということ自体、おかしな発言だと思った。
営業部は、昼夜問わず忙しく、とても勤まりきらないと聞いていたからだ。それを、この男は、
営業部から追い出されたといって腹を立てているのだ。
なぜだろう。
社長は微塵も動かない。
黙って、男の顔を見上げている。
空気がピンと張り詰めて、時が止まったかのような時間が流れた。呼吸一つでもしようものなら、
この男が良からぬ動きをしそうで、桃子は息を殺していた。
落ち着け。
そう言い聞かせた次の瞬間だった。
グュィッ。気の抜けるような音がしたかと思うと、社長が立ち上がった。
「おい、何するんだ?」
桃子は、心の中でそう問いかけていた。
隣のテーブルへ近づく。そこには誰も座っていない椅子が二つ置かれていた。
そのうちの一つを持ち上げると、社長は、自分の座っていた椅子の近くにそれを置いた。
「座れ」
最初に、その男の顔を見て、次には桃子の顔を見た。
二人に言ったのだという意味だろう。
社長には逆らえまい。あれだけの酷いことを言ってしまった手前、気まずかった。
それでも、クビと言われるまではいうことを聞いておこう。
男も大人しく席についた。
カフェは、また静けさを取り戻したのだった。
-第105話へ続く-
テーマ:自作連載小説 - ジャンル:小説・文学
2007/12/18(火) 12:00:00|
笑@会社
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