さて、いったい樹里と有砂の間に何があったのでしょう?
またもう一人誰かが絡んで、樹里の心は引き裂かれます。
理子と桃子の反応は?
桃子は、樹里の相手を阿東、そしてパソコン漢字変換事件を有砂の仕業と断定。
樹里の切ない過去がまだまだ続く第64話です。
第64話「わたしは、ある方とお付き合いしていました」
樹里は、あぐらをやめて、後ろの壁に寄りかかり、両膝を抱えた。
「その方は、いつもわたしの話を真剣に聞いてくれて、どんなことでも相談に乗ってくれました。
最初は、心を許すつもりはなかったのですが、次第に凝り固まっていたものが解けていく。そんな
気持ちを感じました」
樹里は、テーブルに近づき、焼酎のグラスを手に取った。
まだ大きいままの氷を、グラスにぶつけ、カランカランと高い音を奏でる。
それは、樹里の暗く落ち込んだような表情を和らげてくれそうな、優しい音だった。
「初めて、誰かに対して心を開くことができる。そう思うと、いろんな思いが噴き出してきました。
これまでの辛かったことなど、もうどうでも良い。この人さえいてくれれば」
「分かるよ」
理子が大きく頷く。
「叶わぬ思いだったのです」
樹里が一つため息をつく。
「最初から分かっていたことですが、その方には奥様がいました。子供も二人。それなのに、
わたしはダメな人間です」
誰なのだろう。
桃子は、樹里の相手が誰かということが気になっていた。あのように会社と自宅の往復だけで、
時間があったとしても、自宅でのトレーニングをするくらいのものだ。
トレーニングのインストラクターの可能性もなきにしもあらずだが、有砂が関わってくるとなると、
その線は薄れる。
何かが起こって、有砂のことが信じられなくなった樹里。
きっとこの話に出てくる男は、会社関係者に違いない。
桃子にはまだ分からなかったが、秘書という仕事は、会社内の様々な部署とのパイプ役だと
樹里に教えられていた。社員は山ほどいる。中にはそんな風に、心を閉ざしている女性の内部に
スルッと進入してくる男もいるだろう。
誰だ?
一瞬、見覚えのある男の顔が、桃子の目の前を横切った。
そうだ。簡単なことじゃないか。
阿東だ。それで、阿東イコール不倫の図が成り立つ。
そして、それを桃子のパソコンに登録していたのは、有砂に間違いないと睨んだ。
桃子は、握りこぶしをさらに強く握り、何度も自分の足に軽くパンチをする。そこに有砂がいる
かのように、何度も、何度も。
理子が、
「あんた、落ち着きな」
桃子のそわそわした行動を制し、氷の入った冷たいコップを、桃子の頬につける。
樹里は、横目でそんな二人の姿を微笑ましそうに見つめながら、話を続けた。
「結局、わたしは母の子なんだ。そう思いました。自分が気に入ったら、相手が結婚していようが、
子供がいようが関係ない。奪うつもりもないけれど、自分が満たされたいという気持ちでいっぱい
だったのです。父がいるのに、他の男にふらふらする母の子ですから」
自嘲するかのように、樹里は笑う。
「やめよう、やめようって何度も思いました。でも思いは深くなるばかりでした。そんな時……」
樹里は、天井を見上げ、話を続けた。
きっと涙が落ちないように、こらえているのだろう。桃子も一緒に天井を見上げた。
ある日、樹里は仕事が終わってから忘れ物をしたことを思い出し、秘書室に引き返した。
樹里が帰るとき、残っていたのは有砂一人だった。
何かに追われるかのように、キーボードを打っていた。
少し先のコンビニで、差し入れでも買ってくれば良かった。
そんなことを思いながら、部屋に向かって歩いていく。
「空気の通りを良くしたいから、ドアを細めに開けて帰ってください」
有砂の指示通り、樹里が細く開け放したドア。
明かりと共に、有砂の楽しそうな笑い声と、吐息が漏れてくる。
一人じゃない。
樹里は、足音を立てないようにドアに近づいた。
しゃがみこんで中の様子を覗く。有砂の足が時々背伸びしたり、床についたりするのを確認した。
そして、そのすぐ近くに、有砂と向かい合うように置かれた足。
その靴は、紛れもなく彼だった。
靴だけで見分けることができたのは、その靴は、オーダーメイドで樹里が注文してプレゼントした
靴だったからだった。
腰が抜けたかのように、立ち上がれなくなっていた。
それでも、この場を去らなければ。樹里は、廊下の壁にしがみつくように手を這わせる。
部屋の中からは、相変わらず楽しそうな二人の笑い声が聞こえる。
しかし、有砂の口から、
「樹里」
という言葉が出たとき、樹里の体は完全に固まって動かなくなった。
-第65話へ続く-
テーマ:自作連載小説 - ジャンル:小説・文学
2007/09/29(土) 08:00:00|
笑@会社
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