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No  343

ある愛をこめて

「武志」
隣でぐっすり眠り込む、和史の頬に手を当てて、優里はつぶやいた。
「う…ん」
和史の暖かい手が、優里の冷え切った指先を包み込む。
時折、起きているのではないかと不安になって、優里は数回、和史の
名前を呼んでみる。
和史はそのたびに小さく唸るだけで、目はつむっている。

大丈夫。
今日も大丈夫だった。

安心しきって、優里はようやく眠りについた。

武士が夢に出てくると、目が覚めたときに冷や汗をかいている。
寝言で名前をつぶやいていないか心配になるのだ。
一度寝てしまえば、和史は、多少のことでは起きない。
けれど、時々、気付くかどうか、確信犯的に武志の名前を呼んでみる。
反応はない。
和史には、一生分からないままだ。それがいい。
他人の身代わりだったと知って、喜ぶ者などいるはずがない。

「それにしても…」
1時間ほど経って、また武志の夢から目覚めた優里はつぶやいた。
「似てい過ぎるよ」

もう多分二度と会うことがないだろう元カレの武志。
出会った時、錯覚するほど似ていた和史を彼氏として受け入れる
のに、時間はかからなかった。
顔、髪形、背格好、物事の考え方、話し方、髪をすく仕種。
ただ一つだけ、声だけは、似ているかどうか判別出来ずにいた。
その時点で、武志と別れて2年が経過していて、どうしても、彼の
声を頭の中に甦らせることはできなかった。

「武志」
優里は、もう一度声に出してみた。
結婚式の1ヵ月前、呆気なく終わってしまった関係。
武志に別に女性がいたことは、何となく分かっていた。
結婚するのだから、ケジメをつけるものとばかり思っていた。
相手の女性が、妊娠していると知った時、優里は5年間も付き合っ
てきた武志に、何の未練もなく別れを告げた。

それなのに、和史と出会ったことで、結局、武志との日々を思い
出さずにはいられなくなっていた。
「ゆうな…」
優里が、武志の名前を呼んだ直後に、和史がつぶやいた。
「ゆうな」
優里の頭の中を、その三文字が駆け巡る。
優里の知らない名前。

昔の彼女の名前なら仕方ない。
誰なんだろう。
寝言を責めるわけにはいかない。
意識的に言った言葉ではないのだから。

和史が目を覚まし、遅い朝食をとりに外へ出る。
熱いくらいのコーヒーを、体の中に流し込む。
優里は、「ゆうな」という名前を、自分の中から消し去りたかった。
「味わって飲みなよ」
和史が笑う。

「ねぇ、ゆうなってダレ?」

和史の笑顔が、何故だか腹立たしかった。
優里が不機嫌そうに聞くと、和史の顔から笑顔が消えた。

うまくごまかせばいいのに。
この人は、隠したり、ごまかしきれないところも、武志と同じだ。

と思った。

「誰から聞いた?」
「そんなことどうだっていいでしょ」

二人とも苛立っていた。
休日の朝。暖かい日差し。でも、まだ少し冷たい空気。
心の中は、景色とは裏腹に曇り始めていた。

「どうだっていいか」

和史は、優里がしたのと同じように、コーヒーを流し込んでため息
をついた。

「そう、どうだっていいよ。そんなこと」

言い合いになりそうな雰囲気になった。
二人は、これまで喧嘩らしい喧嘩を一度もしたことがなかった。
優里は、それほど本気で和史に接しようとしていないことが原因だ
と自分でも分かっていた。

「まぁ、前に付き合っていた彼女だよ」

それなら、それでいい。
お互いもう30年近く生きているのだから、過去に何人か「元」と
つく相手がいるのは当然だ。

「じゃ、ついでだから聞くけど」
和史が鋭い眼差しで、優里を見た。

優里は、一人カフェでソファに腰をおろしていた。
甘ったるいチョコレートシロップをたくさん入れたコーヒー。
朝のデキゴトを整理するには、甘いものが必要だった。
近所に新しくできたこのカフェは、半個室で、両側に壁があり、
他の客からの視線が気にならない。
考え事をしたいときにはちょうどいいスペースになる。

「お前、それで言っちゃったの?」
それまで聞こえなかった隣の声が、突然スピーカーでも通したかの
ように聞こえてきた。
「言うわけないよ」
あ……。
優里は小さな声をあげた。
和史だ。
「別れたほうがいいんじゃねーの?」
和史の友達と思われる男が言う。
「ゆうなの生き写しってだけで付き合ってるなんて、彼女が可愛そう
だよ。名前まで似てるじゃん。ゆうなとゆうり」

生き写し?

「見ろよ、ゆうなにそっくりじゃん。似ていすぎるよ」
ピ・ピ・ピと機械音が優里の耳に入ってくる。
きっと、和史の携帯電話で撮った2人の写真でも見ているのだろう。
「もう3年前か。生きてれば、3歳になる子供だっていたんだよな」
和史の長いため息に、耐え切れなくなって、優里は店を後にした。

「ゆうな」という和史の昔の彼女は、生きていない。
「ゆうな」という和史の昔の彼女は、和史との子供を妊娠していた。
わたしは、その人にすごくよく似ていて、和史にとって、わたしは
その人の代わりに過ぎない?
星も月も見えない真っ黒な空を見上げた。

朝の喧嘩を思い出す。
「ゆうなは、昔の彼女だよ。ただそれだけ」
「武志って、昔の彼氏。ただそれだけ」
和史は、優里が時々自分に向かって、武志と呼ぶことを知っていた。
「ついでだから聞くけど……お前いつもオレに武志って言ってるよ
な。それこそ誰だよ」
朝の言い合いは、決着がついたかのように見えていただけで、それは
見せかけだけだった。

同じじゃん。
優里はつぶやいた。
わたしが武士を忘れられないように、和史も「ゆうな」を忘れられ
ないんだ。
「でも、わたしはゆうなじゃない」
急に、胸の奥を突き刺されたような痛みが襲った。
自分が、和史を武志の身代わりにしていたという事実は、暗闇に
飲み込まれていった。

「和史は、武志の代わりじゃない」
そう思わないようにしてきた自分が、遠ざかっていく感覚に陥る。
和史と本当に向き合ってみよう。
優里は、いま来た道を足早に引き返した。
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